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関越道の思い出エピソード 皆様からお寄せいただいた関越道に関するエピソードをご紹介

子どもが大学生のとき東京に

住むことになりよく通いました。東松山から大泉まで何度利用したことでしょう。何度か夫の都合がつかず私一人でドキドキしながら子どもの迎えに行ったものです。あれから20年近く過ぎますがいい思い出として残っています。

(群馬県・60代・女性)

関越自動車道の思い出は、今は亡き父親が

毎年家族を連れて新潟県の海水浴に行く時に利用していました。今は、自分が父親と同じ関越自動車道を利用して、子供たちを毎年海水浴に連れて行ってます。自分が運転するようになると、父親も長距離の運転大変だったろうなと思います。関越自動車道を利用すると父親との思い出がよみがえります。

(群馬県・40代・男性)

息子が就職して初めて自宅を離れることに

なった時、引越しのため主人の車と息子の車2台で赴任先の富山まで向かいました。行きは息子の車の助手席に乗って行き荷物を整理して翌日私と主人だけ帰路につきました。涙がこぼれました。富山と石川に転勤になった息子に会いに何度も関越道を走りましたね。今では県内に転勤になり息子も自宅に帰っていますが関越道の風景は、すっかりお馴染みになりましたね。

(群馬県・60代・女性)

私が結婚した昭和50年代は

群馬県から妻の故郷新潟県まで一般道で三国峠を越えながら往復しましたが、関越道開通以来時間が短縮され便利になりました。中越地震後の早期復旧や積雪時の迅速な除雪等、関係者の日頃のご努力に改めて感謝申し上げます。今後も地域の経済発展や環境に配慮した取り組みを期待します。

(群馬県・60代・男性)

私の父の実家は長野で、

私が幼い頃家族での長野への帰省はいつも車でした。5人乗りのセダンの車は父母、子供達3人と沢山のお土産で毎回ぎゅうぎゅうでした。現在父は亡くなってしまいはっきりとした当時の事は分からないのですが、関越道はまだ前橋までしか開通していなかった筈で途中から一般道で父の実家に向かいました。父の仕事が終わるのを待ち長野に向かうため、関越道の記憶はいつも夜でした。途中釜めしやだるま弁当を買って貰い、車中で食べる事もイベントで楽しみの1つでした。
食事が終わり暫くすると姉と妹は眠りにつきましたが、私は運転しながらカセットテープから流れる曲に合わせて歌う父の後ろ姿と、どこまでも続く暗い道路を眺めているのが好きでした。そして仕事終わりで長距離運転を強いられる父の負担を減らす為早く大人になり運転免許を取りたいと考えていました。時は流れ私は免許が取れる年になり、関越道も上信越自動車道の藤岡ジャンクションと接続。長野は身近な場所になりました。今運転手は私です。家族との楽しい思い出の他、友人とスノーボードをする為に向かっていた新潟でスピード違反で警察に捕まってしまった苦い思い出等関越道には沢山の思い出があります。これからも沢山の楽しい思い出を作らせていただきたいと思います。今までありがとうございました。そしてこれからも安全安心な関越道でお願いいたします。

(神奈川県・50代・女性)

ちょうど20年前は千葉の大学に

在学。帰省するために、お金がない私は新幹線ではなく、毎回関越道を通る長距離バスを利用していました。特に冬は雪のため運休にならないか心配していました。思い出深いのは、成人式のために前日にバスで帰省。湯沢までは快晴。しかしトンネルを抜けると銀世界の雪景色でした。今は就職のため、新潟にもどり、結婚し、子供も独立しました。今は長距離バスに乗る機会はなくなり、もっぱら自家用車での利用ですが、今でも甘酸っぱい思い出です。

(新潟県・50代・女性)

今年で単身赴任して3年が

経過しています。毎週自宅へ戻る際に関越自動車道を利用しています。約3時間くらいの利用となりますが、この道がある事でいつでも自宅へ戻れます。私にとって無くてはならない大切な道です。

(群馬県・50代・男性)

関東に進学、就職した子供達の

所に行く時は、いつも車で、関越トンネルの県境を通過すると、ワクワクしたり、しんみりしたりでした。

(新潟県・50代・女性)

私は群馬県渋川市に住んでいます。

子供の頃に父が運転する車で関越道を通ってよく新潟の水族館に連れて行ってもらいました。私は水族館が大好きで、行きはわくわくした気持ちで、帰りは遊び疲れて眠ってしまうことが多かったです。親になり、今度は私が子供を水族館に連れていきました。行きのわくわくした気持ちはそのままに、帰りは楽しかった気持ちと居眠り運転にならないように気をつけながら関越道を通りました。両親もこんな風に考えながら通ったのかと思いを馳せていました。これからも関越道を通った先にたくさんの思い出ができると思うと楽しみです。

(群馬県・30代・女性)

38年前ほどになるかと思いますが

学生時代を過ごした友達と越後湯沢のお宿で集まることになりました。新潟からは私一人であとは千葉から友達数人乗り合わせでの待ち合わせです。12月下旬頃かと思いますが一泊して翌朝起きてみると雪が腰の高さまで降っており早々に帰路につきました。一人での高速での運転、ましてや凄い雪道での運転で2時間以上緊張しながらビクビクの運転でした。しかし道路は除雪車がひっきりなしに除雪してくれていてハンドルを取られることもなく新潟の西インターで降りる時にはまだ自動改札ではなく職員の方がいらっしゃって「よく一人で運転してきたね、ご苦労さま」と言ってくれたことが涙が出るほど嬉しかったことが思い出にのこります。

(新潟県・60代・女性)

2年前の3月、埼玉に進学する娘の

引越の帰り、谷川岳SAで休憩時、猛吹雪でした。ついさっき、「じゃあね頑張ってね」と別れた娘との距離を感じ寂しさが溢れたことを覚えています。娘は帰省に、よく高速バスを利用しています。関越道に感謝しています。

(新潟県・50代・女性)

今から30年以上前、新潟県津南町の

スキー場に向かって埼玉県の自宅を午前3時頃に出発しました。所沢ICから関越道に乗ると赤城高原SAから先がチェーン規制。時まさにスキーブームの真っ最中、あっという間に大渋滞に。当時は関越トンネルも対面通行だったので余計時間がかかり、結局目的地のスキー場に到着したのが午後4時半。通常であれば4時間でお釣りがくる行程を13時間半かけて走破。その日はナイターだけ滑って投宿、翌日は渋滞回避のためナイター&温泉を堪能してゆっくり帰りました。当時は大変でしたが今では関越トンネルも2車線になり、雪用タイヤの普及もあってそこまでの渋滞は減ったので良い昔話のネタになりました。

(埼玉県・50代・男性)

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